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永登浦を歩いてみた〈大鮮製粉跡、その他〉

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前回のつづきの永登浦の話。
永登浦駅前から大通りに沿って、西に向かって歩く。
この辺りも古い街で、再開発予定地となっているようだ。
それでも辛抱強く残っている店がちらほら見える。

高架道路と交わる辺りまで来ると、
以前、龍山駅や清凉里駅付近にあった売春宿のようなガラス張り店が見えてきた。
角を周ると、左側には大型ショッピングモール・タイムスクエアと塀、
そして右側にはガラス張りの店がずらり…。
午前中だからか、ガラス張りの店の多くはカーテンが閉まっており、
おばさんたちが掃除をしていた。
向かいの塀の前ではおばさんがタオルを干していた。
塀には「撮影禁止」と書かれている。
いわれなくても怖くて写真撮れないよ...。

ある研究によると、ここの売春街は1950年代、
永登浦駅前に陸軍補給部隊ができてから形成されたという。
龍山も清凉里も撤去されてもここには残っているんだなあ。

それにしても、洗練されたタイムスクエアの裏口が面しているなんて!
タイムスクエアから出てきた女性は、ガラス張りの街の前を足早に走り抜けた。
歩いていくと、タイムスクエアで働いているらしい人たちが、
タイムスクエアに向かって歩いていく。
ガラス張りの街は彼らにとってはないものとして映っているのだろうか。
龍山や清凉里の売春街は、そこに足を踏み入れない限り目には入らないが、
ここでは一般市民の目に入るところにあるというのが不思議だ。
売春街の立場としては、もともと私たちがいたところに
タイムスクエアが入ってきた、ということなんだろうが。
タイムスクエアが建っている場所は京城紡績の工場だったという。
そのあたりの歴史ももっと調べてみたいな。

もう一度タイムスクエアの西の端までやってくると、
向こうにサイロが見えてきた。
訪ねたいと思っていた大鮮製粉の工場だ。
1936年に日清製粉の工場として建てられ、1958年に大鮮製粉の工場となったが、
大鮮製粉が移転して、複合文化空間として生まれ変わる予定だという。

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近くまで行ってみた。
あああ、産業施設ってほんとにいいよなあ。
この巨大さがたまらない。

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興味深いのは、大鮮製粉の工場の敷地を囲んで
2階建ての建物に小さな工務店があつまっていること。
工場と関係のある業者たちなんだろうか。

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そしてさらに角を曲がると、
週末のためか閉まっていて分からないが、野菜や果物の流通業者の店なんだろうか、
工場の倉庫らしい建物に沿ってずらりと店が並んでいる。
店の向こうに見える倉庫らしい建物もそうとう古そうだ。

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さらにその奥にある工場の建物の壁には
「大鮮製粉株式会社」と漢字で書かれており、歴史を感じさせる。

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ずっと歩いてまた角を折れると、今度は工場の倉庫らしい建物がすぐに面していた。
これからの倉庫がいつ頃建てられたのか気になって、
建物の年代地図で調べてみると、大部分の建物は1988年に使用承認を受けたとされている。
でも、そんなに新しくは見えないのでどういうことかと思っていた。
いろいろと調べていくとこの工場跡地が生まれ変わるという記事にたどりつき、
ここの建物の多くが日清製粉の工場が設置された
1936年に建てられたということが分かった。
リノベーションはうまくいっていないのか、
最初の予定より遅れているようだが、早く成就したらいいな。

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今日はこのくらいで、と思って永登浦駅のほうへ向かおうとした。
が、道の向かいに古い日本家屋っぽい家が見えた。
あのあたりを少し歩いてみようと思い立って、道を渡った。
線路と平行に走る道路から斜めに路地が伸びている。
そしてその角の植え込みに案内板が立てられていた。
その時は、内容についてはよく理解できなかったが、
後で調べてみると、「ソウル永登浦公共住宅地区予定地」に関する案内らしい。
それに関する話は後に回すことにしよう。

さて、その謎の領域に足を踏み入れた。
線路と永登浦駅を超える高架道路に沿うように少し広めの道がつくられており、
その道の両側には古い家屋が並んでいる。
そして道にはみすぼらしい服を着たおじさんおばさんたちがたくさん。
そのうち10人くらいは、歩道にレジャーシートを敷いて、
何かをしている人の周りに群がって見物しているようだ。
ユンノリか、将棋か、そんなところじゃないだろうか。
道のあちらこちらには何かを訴える横断幕が張られていた。
いわゆるスラムのような雰囲気が漂っていたので、
あまり深く入らないほうがいいと思い、引き返した。

さきほど話した「ソウル永登浦公共住宅地区」というのは、
チョッパン村、つまりドヤ街に自治体のお金で住みやすい住宅を建ててあげ、
そこで快適に住めるようにしてあげようという事業らしい。
でも、そこに実際にかけられていた横断幕の主張が、
それに反対するものか、賛成するものであるかは分からなかった。
気になる…

それにしても、今まで多くの再開発予定地を歩いてきて、
ここに入りこんで大丈夫かなと思うような地域はあったけれど、
それほど恐怖は感じたことはなかった。
でも、ここは、いてはいけない感を覚えた。
もちろん、そこにいた人たちから敵愾心を感じたわけではないし、
私の思い過ごしにすぎないかもしれないけれど。

以前、弘済洞で感じた、よそ者を警戒している感じがまだある永登浦。
何度も訪れて仲良くならないとだな!


by matchino | 2021-01-05 21:11 | ソウル | Comments(0)
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