吉祥寺を後に、次はもう一つの愛の物語がある家「老柿山房(ノシサンバン)」へ。 大使館が並ぶ歩道もない山道を歩いて、やっとバスが通る道へたどり着いた。 この辺りは車がないと行けるようなところじゃないな。 バス通りに出て、そこから少し下った所に目当ての「老柿山房」はある。 ここについて知ったのは、このブログで何度か紹介している本「青春男女、100年前の世の中を貪る」の著者であるチェ・イェソン作家の最新刊「午後三時、その場所から」に紹介されていたからだ。 その本を読んだときはピンとこなかったが、城北洞について調べているうちに「老柿山房」の話が出てきて本のことを思い出したという訳だ。 こういうふうにいろいろな所に散らばっている話がつながってくると楽しい。 さて、この「老柿山房」に最初に住んだのは金瑢俊(キム・ヨンジュン)という画家。 金瑢俊画家は、ここの名前の由来となった数本の柿の老木が気に入ってここに引っ越してきたのだという。 当時、城北洞はソウル市ではなく、京畿道高陽郡に属しており、雉や狼が出るという田舎だったため、金瑢俊の妻はここに来るのを嫌がったが、夫に説得されてここに住むことになった。 しかし、金瑢俊はここに長くとどまることはなく、友人の画家である金煥基(キム・ファンギ)に譲ることになる。 城北洞にまつわる愛の物語は、「老柿山房」を譲り受けた金煥基とその妻・金郷岸(キム・ヒャンアン)の話だ。 金郷岸はもともと卞東琳(ビョン・トンニム)という名前で、20歳の時、詩人の李箱(イサン)と結婚した。 李箱は夭折した天才詩人として知られており、「烏瞰図(オガムド)」(「鳥(チョ)」瞰図ではなくて、「烏(オ)」瞰図。間違えたのか、わざとなのかも謎なんだとか)などの難解な詩を書いた。 しかし、李箱は卞東琳と結婚してわずか3ヵ月後に日本に留学に行き、その1ヵ月後には卞東琳に見取られながら病死してしまう。 未亡人となった卞東琳がその数年後、金煥基に出会うことになったエピソードが面白い。 則武三雄という日本の詩人が紹介したといわれているが、ある人の話によると、実は則武三雄が卞東琳に片思いをしていたのに会ってくれなかったため、卞東琳を家に呼ぶための口実として金煥基を一緒に呼んだのだという。 そこで出会った金煥基と卞東琳は互いに愛し合うようになり、結局ゴールインとなった、というわけだ。 しかし、両家ともこの結婚に反対していたという。金煥基は離婚して子供が3人いるし、卞東琳も夫と死別した未亡人ということで、当然のことかもしれない。それでも友人たちは彼らを祝福し、金瑢俊は「老柿山房」を譲り、ある画家は「老柿山房」で仲良く暮らす二人の姿を描いた絵をプレゼントしたという。この二人、とても深く愛し合っていたようで、夫の腕をしっかりとつかんで仲良くパリの街を歩く写真が残っている。 卞東琳は結婚して金郷岸と名前を変えたが、「郷岸」というのはかつての金煥基の号なのだという。 金郷岸は後に金煥基が亡くなった後、夫のための美術館を建てた。付岩洞にある煥基美術館だ。 私はまだ行ったことがないが、美術館の建物がいいということなので、春になったらぜひ行ってみたい。 金煥基・金郷岸夫婦が住んだ「老柿山房」は、すぐに他の人の手に渡り、数本あった柿の木も1本しか残っていないという。 この日、結局、少し行き過ぎてしまってから、遠くから確認しただけなので、柿の木があるのかどうかも分からなかった。 秋に来たら、真っ赤に熟れた柿が見られるだろうか。 この日の城北洞散歩と二つの愛の話は、妻にとっても面白かったようだ。 調べてきた甲斐があった! さあて、次はどこに物語を見つけようかなー。
by matchino
| 2015-02-25 20:58
| ソウル
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